厳選した小麦粉、食塩、天然水を使い丁寧に麺生地を練り上げました。 そして「コシ」と「のどごし」を楽しんでいただくために一晩寝かせて熟成したものをカットしています。
かけ、ぶっかけ、釜玉、色んな讃岐うどんを楽しんでいただくためにシンプルに純生麺だけをご用意しました。
素材と製法にとことんこだわった讃岐うどんを是非ご賞味ください!
★手打ちうどん つるわ
~本場讃岐の家庭で鍛えられた味を全国へ~ 創業から28年、地元香川の食料品店様、飲食店様に可愛がっていただき、同時に厳しい舌に鍛えていただきました。 素材と製法にとことんこだわり、本場で鍛えられた讃岐うどんを是非ご賞味ください。 ★讃岐うどんの歴史
◎江戸時代以前
典型的な瀬戸内海式気候に属するため日照時間が長く、また平地が多い事から穀物栽培に適している。 古く条里の時代から畿内を凌ぐほどの水田が広がる一大穀倉地であったが、主要な作物は長らくイネであった。 やがて戦国時代から江戸時代にかけて二毛作が盛んになり、小麦の生産が増加した。 降雨も河川も少ないこの地で水田から一度水を抜いて畑にする二毛作は、少ない水を徹底的に使う治水開発を促し、今日見られるおびただしいため池が広がる讃岐平野の景観もこの頃に形作られた。 商品作物が奨励された江戸中期以降は米・小麦以外にも様々な作物が生産されるようになり、少雨の気候は製塩に適するため19世紀初頭から坂出に塩田が開発された。 醤油の生産はそれより古くから小豆島や引田で行われていた。しかし江戸以前は醤油は高級品であり、産地の庶民が気軽に地元消費していたとは考えにくく、江戸中葉以前の讃岐におけるうどんの形がどのようなものであったか(あるいは他所との違いは無かったか)は、なお研究を待たねばならない。 なお、当時の大消費地におけるうどんのレシピには、垂れ味噌または煮貫き(いずれも味噌由来)を用いるとあり、醤油の記載はない。 讃岐でのうどん屋の記述が、元禄末(18世紀初頭)に描かれた『金毘羅祭礼図屏風』に現れる。 200軒あまりの建物がひしめく金刀比羅宮門前町の活況を描いたこの屏風には3軒のうどん屋が認められ、いずれも絵馬様イカ型の特徴的な形の招牌(しょうはい、看板のこと)を掲げて営業している。 同時代の浮世草子『好色一代男』(1682年)の挿絵でも、三河国は芋川に開いたうむどん屋(うどん屋)が同じ形の招牌を掲げている。 この形状の招牌は、讃岐に限らず麺類を出す店の看板として一般的であった。 江戸時代後期には金毘羅参りを対象とした旅籠が増え、その1階がうどん屋であることが多かった。 また参拝客が船で発着する丸亀や多度津にもうどん屋があった。 うどん屋の店頭には麺を茹でる釜が据えられ、うどんを入れた砥部焼の鉢、付け汁を入れた猪口、そしてショウガやネギが供され、漬けて食べる形式が一般的だった。 ◎明治時代 - 戦前
明治時代には夜なきうどんの行商人が高松市内に増え、1887年頃には天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部に石油ランプを灯して鈴を鳴らしながら売り歩いていた。 箱の下部には丼鉢や湯沸かしを入れ、総重量は60-70kgだったといわれる。 20世紀に入るとこれらの業者は全て車輪付き屋台を用いるようになり、その両脇に飾り格子をはめて行燈を吊るしていた。 うどんは鰹節と出汁を掛けたぶっかけで、人気があったという。 夜なきの行商人は生麺の卸売業者(玉卸し屋)と契約して道具を借り、営業を行っていた。 当時は5軒の玉卸し屋があったが、大正時代にはのれん分けの関係を基に3系統に分かれ、第二次世界大戦終戦までこれが続いていた。 昭和初期には飾りガラスなどを凝らした屋台が並び、夜の高松の風物詩と呼ばれた。 農村部では水車の動力を利用した製粉業が盛んになり、粉を仕入れる小規模な製麺業者も増加した。 1930年代にはエンジン式の製粉機が普及し始め、20世紀後半には完全に水車に取って代わっている。 同時期には機械式製麺も全国に広がったが、香川県では手打ちの製麺所が残った。 20世紀前半の香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が振る舞われ、「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉があったという。 ◎第二次世界大戦以後
終戦直後の小麦粉が十分に手に入らない中、高松市などでは代用品としてドングリや芋の粉を用い、足りない粘り気はワラビの粉やところてんで繋ぐなどしてうどんが作られていた。 小麦粉の供給は、1949年頃から闇市を中心に回復してきた。 うどんは主に家庭で消費され、また喫茶店や大衆食堂を含む様々な飲食店にうどんは置かれた。 1960年代にはその数3,000から3,500と推定される。当時はまだうどん専門店と呼べるような店は高松市内でもほとんど存在していなかったが、1960年代半ばから香川県独自のセルフサービス方式のうどん専門店が登場した。 1970年前後からはメニュー数種を揃えたうどん専門店も増え始め、現在に至る香川県におけるうどん店の状況が形作られていった。 飲食店の分化・専門化が進んだことでうどんを扱う飲食店の総数は逆に減少した。 1963年2月に高松駅の構内に立ち食いうどん店が開店した。当時、立ち食い蕎麦は全国の多くの駅にあったが、うどんは前例がなかった。 まもなく高松駅構内には2号店もオープンし、テレビなどで「食べる民芸品」として県内で味の評価の高い店が紹介された。 1969年には宇高連絡船デッキの立ち食いうどんコーナーが営業を開始した。 また、この頃にポリエチレン包装など衛生面の進歩により保存期間が伸び、土産品としての販売も上昇してきた。 この頃まではうどんが香川の名物であるという認識はそれほど一般的ではなかったが、1970年の大阪万博で和食チェーンの京樽の運営するレストランのメニューの一つとして供され、ガラス越しに手打ちを実演し毎日6,000食を売り切るなどし、知名度も上昇していった。 1974年に加ト吉(現・テーブルマーク)が「冷凍讃岐うどん」で冷凍麺市場に参入し、製造・販売を開始。 しかし、品質面における特徴であるコシの強さが出ていないとの理由から、当時の社長は直ちに改良を指示し、製法や茹で方を研究し試行錯誤を重ねた末、新技術の開発や新装置を導入して「コシ」問題を解決し、1976年にリニューアル発売した。 1978年にはキンレイがコシを目指して再現したアルミ容器入り冷凍鍋焼きうどんを発売。 |